「暗闇」  ある小雨が降る晩、藤次郎は玉珠をドライブに連れ出した。  環状線を走り、だんだん人気のない街灯もまばらな所に向かって藤次郎は無言のまま 走っていった。  …その間、二人に会話はなかった…  しまいには、街灯が殆どない暗闇の中を藤次郎は車を走らせていた。玉珠は闇に吸い 込まれそうな恐怖を覚えた。  「…ここ、どこ?」  玉珠は恐る恐る藤次郎に尋ねた。  「埠頭だ」  「埠頭?」  「うん、おまえも、そろそろ経験した方がいいと思って」  (…それって…カー×××とかってこと?) と考えた途端、玉珠の脳裏には色々なことがぐるぐると巡り始めてパニック状態になっ た。  その時、藤次郎はおもむろに車を止めて、  「…ここらで、よかろう」 と、言った。  (…ここらって…)  玉珠は、怖いような何となく嬉しいような気分がした。  藤次郎が車のエンジンを切ると、自分の心臓がドクンドクン言っているのが藤次郎に 聞こえるのではないかと思えるくらいに激しい動悸を覚えた。  そう思っていると、藤次郎は車を降りて、玉珠が乗っている助手席に回ると、ドアを 開けて、  「ほれ、交代だ」 と、助手席の玉珠の顔を覗き込んで一言いった。  「…なんで?」  途端に現実に引き戻された玉珠は真顔で訴えるように藤次郎に行った。しかし、藤次 郎はその声を無視するかのように、  「夜間の路上運転の訓練だ。おまけにおあつらえ向きに小雨が降っている。これれく らいの悪条件の方がいい」  玉珠は、ようやく藤次郎がこんな晩にドライブに連れ出したことに合点がいった。ホ ッとすると当時に、また、なぜかやるせなく、寂しい気持ちもした。  お互い席を交代した。シートベルトを付けながら、藤次郎は真剣にまなざしで言った。  「いいか、よく聞けよ。ここから先、交差点が三つある。それぞれ停止線があるし、 当然一時停止だから、停車しなくてはならない。ここらは暴走族対策で交機(交通機動 隊)の車両がどこかに隠れている。従って一時停車を怠ると捕まる…免許証は持ってい るな?」  「はっ、はい」  「それから、三つ目の交差点の先のすぐに九十度のカーブがあるので、まっすぐに行 き過ぎると、ガードレールなんかないから、海にドボン!また、方向を見失ってセンター ラインをまたいでしまうと同じく海にドボンだ!!」  「ひーー」  玉珠の顔が引きつる。  「俺は、お前に命を預ける。じゃ、出発!」 と言って、藤次郎は腕組みをして前方を鋭く睨んだ。  玉珠は、びくびくしていたが、藤次郎に顎で促されて、恐る恐る車をスタートさせた。  「こらこら、車線をまたいで走っているぞ!」 と、藤次郎に言われたが、玉珠には小雨で路面が光って、停止線どころか、車線も見え なかった。  「みっみえない!」  玉珠がパニックに陥りかけたとき、  「じゃ、まず止まれよ!そして、車線を探すんだ」  言われたままに、玉珠は車を停止させ、注意深く路面を見渡した。  「…でも、見えないわ…」  藤次郎は暫く黙っていたが、  「じゃヒントをあげよう…、今、ヘッドライトをハイビームしているだろう?」  「うん」  「それじゃぁ、光が強すぎて路面が反射してしまう。ロービームしたら?」  玉珠はロービームに切り替えた。  「…あっ、うっすらと見える」  「それで走ると?」  玉珠は車を発進させた。  「でも…今度は遠くが見えない…」  「路面の状態を見ながら、ロービームとハイビームを切り替えるんだ。場合によって は、ロービームで走りながら、時折パッシングして瞬時に周りを読み取るんだ。でも、 当然のことながら、対向車が居る場合はやってはいけない」  玉珠は、黙って頷くと藤次郎の言うとおりにヘッドライトを操作した…しかし、  「ほら…最初の停止線を越えてしまった…交機がいなくて幸いだったな…」  「エッ?エッ?」  「こら!キョロキョロしない、次の停止線が近いぞ!!」  玉珠は不安に駆られてパニック状態になってしまった。さすがに、藤次郎も怖くなり、  「状況が分からなくなったら、まず停車すること!走っていたらよけい状況が悪くな る。停車して落ち着いて周りを見て判断すれば、安全に判断できる…」  藤次郎は、パンと手を打つと、  「まぁ、今日はここまでにしよう…その先の道を左に曲がって」  と玉珠に微笑んだ。  「…でも…」  玉珠は、なにか言いたげな表情をしたが、藤次郎の笑みにここは押し黙った。玉珠は、 藤次郎に言われたように道を曲がると、そこにはライトアップされた吊り橋があった。  「きれい…」  車を止めて、無意識にドアを開けて二三歩飛び出すと、玉珠は両手を胸のあたりに組 んで感嘆の息を漏らすように言った。  「…実は、この景色も見せたかった…普通の日だと、カップルばかりでね」  後から、助手席のドアを開けて藤次郎は、車越しに話しかけた。そして、玉珠の居る ところに回り込むと、玉珠の手に缶コーヒーを渡し、玉珠の肩を抱いた。  暫く二人は自然に寄り添って吊り橋を眺めていた。  すっかり、機嫌が直った玉珠を助手席に座らせて、  「いいか、さっきお前が走ってきた道を戻ってみるぞ」 と、言って藤次郎は普段通りのスピードで車を走らせて、「ここ」と言いながら、的確 に停止線で車を一時停止させ、玉珠がスタートさせた位置に戻ってきた。  「…なんで分かるの?」  助手席に座って見ていても、玉珠には停止線が分かりづらかった。  「さっき言ったように、ロービームで走りながら、時折パッシングして周囲を一瞬で 判断するのと、交差点の脇にある”止まれ”の標識を見つけて停止線のあたりをつける んだ」  「ふーーーん」  「それから、この道は夜間走行の訓練に使っていて、大体覚えていることもあるけど …」  「あっ、ひどーーい」  玉珠はそういって、眉をひそめた。しかし、藤次郎はまっすぐ前を見たまま、  「でもね、これって、俺も免許取り立ての頃、兄貴にやらされたんだよね。おかげで 夜間走行のノウハウを教えて貰ったんだけど…」  「まぁ、お兄さんが?」  藤次郎の兄を始め、藤次郎の親戚の男達はラリーやダートトライアル競技のアマチュ アチームを組んでいるのを玉珠は知っているので、藤次郎の兄の運転技術が高いことは 承知している。  「…ちなみに…」 と言って、藤次郎がハンドル下にあるパネルのスイッチを入れると、路面が黄色くなっ た。  「これなら、停止線がよく見えるだろう?」  「うん」  「これは、フォグランプと言って、悪天候時に使用する補助ランプをこの車には付け ているのさ」  「あーー、ひどーーい」  玉珠は、今度はふざけるように言った。  「これは、標準装備じゃないんだ」  「そうなの?」  玉珠は、藤次郎の言葉に真顔で受け答えした。  「普通じゃ付けられないのを無理して付けているのさ」  「ふーーん」  感心している玉珠を乗せて、藤次郎は元来た環状線に入ると、  「今度は、月夜の晩にこよう」  「…うん」  玉珠は、有り難いのか、迷惑なのか、なんだか判らない表情をした。 藤次郎正秀